「やっぱり僕は見る人が悪いと思う。問われているのは自分なんだ」に思う「メディアの意義」
堀さんの話が気になったので、簡単にまとめ
最初に感想をまとめると、話の流れ・筋には共感できるけど、気になる点も多々…という感じでした。
目次
「見る人が悪い」
メディアというのは、最終的には見る人たちによって判断されるもの。だから一方的にけしからん雑誌だと言っていても、何も変わらない。裁判をやって負けても、売れるなら出し続けるというのが基本スタンスのはずだ。その意味では、やっぱり僕は見る人が悪いと思う
「見ない→売れない→メディアが変わる」という話には共感できるけど、"見る人が悪い"は違うような気がする。
手段として「見ない」というのはいいと思うけど、この話に関しては、根本的な問題があるのは報道で、見る人が"悪い"というのはどうも違う気が。
見る人にも問題が全くないとは思わないし、「見る人にも問題がある」ならそれほど抵抗感はないけど、「見る人が悪い」と言われると抵抗感が。
「アクションが取れてこそ」
剥き出しのプライバシーほど魅力的だと思うのが大衆社会の常だ。嫌悪感を示しながらもやっぱり見ちゃうのが怖さだ。流れてきちゃったなと思いながらも、つい手が伸びる、チラッと確認する自分がいる。その時に、何だよこれ、人権侵害だろう!こんなの見たくないよ、こういうのじゃないんだよ。俺たちがあなたの雑誌に期待してるのは!とTwitterにガンガン通報したり、周りの人にこの雑誌は最低だよと言う、そういうアクションが取れてこそだ。
話の内容には共感できるし、「見ない」よりも有効な手段だと思う。
ただ、「見る」前提があってのアクションなのではという気がする。
まとめ ~ メディアの意義とは?
見てアクションとるのが、より有効なのではないかなという気がします。
そもそも、メディアの意義もその辺りにあるような。
少なくともメディアの報道の建前として、"「報道 → 見る・知る → アクション・行動の変化」に期待している"というのが主要な意義ではと思いますし、実際、有効な手段だと思います。
相手がメディアの場合だけ、この優秀な流れに当てはめないのは疑問を感じます。
「見ない」というアクションとも言えるかもしれませんが、嫌悪感を覚える人が見なくなれば抗議のようなアクションも生まれず、見たい人だけが見続けるという事になるような気がします。
やはり、「見て」、アクションを起こす方が効果的じゃないかなと思います。
どちらにしても、「見る人が悪い」というのは違う気がします。